音楽と数学と文様

透き通って硬質な、「仕組み」のある美しさ

「音楽」「数学」「文様」の間には深い関連性があると思っています。なのでそれらについて思うことを書いていく予定のブログ。
数学について、幾何学文様について、結晶構造について、アクセサリー作りその他いろいろものづくりについて、その他いろいろ、など。
とは言っても全然関係無さそうな好きな本のこととか日々のこととかもあれこれ書く予定です。自作アクセサリーの写真なんかもアップしてく予定です。
あと、大学は一応心理学系だったのでそういう話もいろいろ書きたいです。

モノに宿るココロ

アクセサリーとかのモノづくりがひたすらに好きな人生を歩んでいると、「モノは単なるモノではない」というようなことをつい考えてしまいます。
人が心を込めてモノを扱うとき、それは「単なるモノではない何事か」に変容する。
なんか、そんなようなことを思ったりします。


例えば、「飴玉1個を誰かにあげる・あるいは誰かから受け取る」とき、その行為をとても機械的に行うこともできるし、モノに心を託して行うこともできる。
そういう「扱い方の違い」によって、モノはだたのモノであり続けたり、モノを超えた何事かに変容したりする。
そんなような気がします。

 

1つの飴玉にだって、とっても沢山の思いが乗っけられているかもしれないのだ。
ねぎらいとか、「お疲れ様ー」的な気持ちとか、細やかないたわりとか、感謝とか、「頑張ってね」な心とか、あるいは時に「大好き!」な気持ちとか。
人は時に、たった1個の飴玉にそんな心を託して他者に手渡すことだってあるのだ。

 

そういう時、モノは単なるモノではなくなる。
「心が宿る何事か」になっている。


モノを「単なるモノ」にしているのは、モノ自体の話じゃなくて、人間の認識の話だ。
飴玉一個を「こんなのは単なるモノに過ぎない」と思うだけの人は、そこに託された沢山の思いや物語に気づくことができない。

 

「モノに宿るココロ」は、変な絵空事でも何でもない。人間の世界認識の話だ。
「モノをどう見るか」「モノをどう扱うか」によって、いっくらでもそこに心を宿すことができるのだ。

 


そして、アクセサリーを作ったりすることなんかはまさに「モノに心を託すこと」です。
過去記事で人様にプレゼントしたアクセサリーを紹介しましたが、その時はただ写真だけでなく、そのデザインのアクセサリーを作るに至ったプロセスを書きました。
「私はこんな風に心を託してアクセサリーを作っています」ということを表現したかったからです。

 


ものづくりの世界に深入りするようになってから、「モノに宿るココロ」ということについて以前よりずーっと深く考えるようになりました。
そして「他者が私に手渡してくれたあれこれに宿る心」にも、以前よりずっと敏感になったと思います。


モノ的には「飴玉一個」に過ぎないモノだったのだとしても、そこにはいろいろな思いが乗っけられているのかもしれない。
だから、たとえ飴玉一個でも、丁寧に受け取りたいと思うのです。

 

とは言っても「貴方はこれこれこういう気持ちで私にこの飴玉をくれたのですね!」とストレートに言えばいいってものではない。
あまりにもそのままの表現で言ってしまうといろんなものがぶち壊しになっちゃうことだってあるのだ。
それに、安易に言葉にしちゃうと、その言葉が相手の気持ちとずれていた時にはなんとも興醒めな感じになってしまう。
実は相手はホントに機械的に飴を配っていただけだった、というだってありうる。そういう時に勢い込んでなんかしゃべっても相手からすれば「は?」って感じだろう。
こういうことを言語化するというのは、言語表現的には相当高度なことなのだ。なんか比喩的な表現を使うとか、重くなりすぎないようにあえて茶化したような表現にしてみるとか。いずれにしてもこれは結構高度なコミュニケーションスキルだ。いつでもうまく行くという訳でもない。相手との関係性にもよるし。

 

でも、何とか、何となくでもいいから「私は貴方の思いやりを受け取りました」ということが伝わるように努力したい。
それは例えば「相手の目をしっかり見て受け取る」とかそういうことかも知れないし、受け取ったモノを丁寧に扱うとか、そんな感じのことかも知れない。
あるいは「あの時は嬉しかったです」とあえて別の時にお礼を言ってみるとか。
そういう小さなことにできるだけ手抜きをしないで生きていきたい。
モノづくりに関わる人間の責任として。

 

若い頃は、こういうことに全く鈍感だったと思います。
人の気持ちが見えず、沢山沢山の心をないがしろに扱ってしまっていたと思います。

 

きっと「私が望むような形で私に優しくしてください」という気持ちが強すぎたのだろうな。自分の心の中に独りよがりな「理想の関係」みたいな妄想を持ちすぎて、それから外れることはみんな切り捨てていた。

まあ、若い頃というのはそういう風になってしまうのはある程度は仕方ないことだと思うけれど。
でもそういう風に「自分の理想イメージ」にがんじがらめになってしまっていると、それと異なる形で表現される人の心に全く鈍感になってしまう。
それでは、人の心を受け取ることはできない。

 

段々と年を重ねてきて、まあそれ相応にいろいろな人間関係を経験して、そうやって少しずつがんじがらめから解放されてきたのだと思います。
だから、以前よりはずっと「いろいろな方法で表現される人の心」みたいなのに敏感になった。

 


とは言っても、いくつになってもやっぱりいろいろな失敗をしてしまうとは思います。

 

いろいろなことで疲れて消耗してしまっている時。

自分の中の不安とか心配とか怒りとかに心が囚われてしまっている時。

 

そういう「心に余裕が無い状態」の時は、とたんに「モノに宿る他者のココロ」が見えなくなってしまいます。
そしていろいろなことをないがしろに扱い、機械的な対応に終始してしまう。人の心が見えない。受け取れない。
少々年を重ねた今でも、やっぱりそんな風になってしまうことはたっくさんあります。
何しろ全然悟ってない人間なので。


でも、沢山失敗しながらも、少しずつでもいいから精度を高めていきたい。
「モノに宿るココロ」に敏感になる、ということをいつも意識して生きていたい。

 

モノに託されたココロをしっかりと認識して受け取れる人間でありたいよ。


モノづくりの道を生きていたいのであれば、やっぱりいつも自分にそういうことを課していなければいけないなーと思ったりします。
誰かが「モノに託したココロ」に鈍感なんでは、到底「ココロが宿ったモノ」を生み出すことはできまいよ。

 

だからいつも「モノに宿るココロ」に敏感であることを目標にしていたいなあーと思います。

誰かからモノを受け取る時も。誰かにモノを手渡す時も。

 

 

 

(ブログ更新できてない期間が長くてすみませんでした。なんかいろいろドタバタとしてまして…。更新頻度低めブログですが、でも細々とでも書き続けたいと思います…)