音楽と数学と文様

透き通って硬質な、「仕組み」のある美しさ

「音楽」「数学」「文様」の間には深い関連性があると思っています。なのでそれらについて思うことを書いていく予定のブログ。
数学について、幾何学文様について、結晶構造について、アクセサリー作りその他いろいろものづくりについて、その他いろいろ、など。
とは言っても全然関係無さそうな好きな本のこととか日々のこととかもあれこれ書く予定です。自作アクセサリーの写真なんかもアップしてく予定です。
あと、大学は一応心理学系だったのでそういう話もいろいろ書きたいです。

御堂筋

えーと今回は、「音楽と数学と文様」には直接は関係無く、日常の「日記」ちっくな話題を…。


私は都内に住んでいて、会社も東京です。
今の会社は自社勤務になることはあまり無く、いろいろな案件に入っていろいろな会社で働きましたが、基本どれも都内でした。

ですが今は大阪長期出張中です。8月から基本大阪勤務です。
ずーっと東京と大阪を行ったり来たりの日々を過ごしております。
こんな長期出張ははじめてです。

体力的にはなかなか厳しいものがありますが(何しろ週末に移動しているので)、はじめての大阪生活はいろいろと興味深いです。


勤めてるところ(客先企業に常駐しています)はバリバリ御堂筋沿いです。
「ザ・大阪のビジネス街」な感じのところで働いております。


休日出勤した際に御堂筋の様子を写真に収めてみました。

 

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撮影してからもう結構時間が経ってしまった…。今はもっと紅葉が進んでいるかと。

っていうか今はもうイルミネーションなどもございます。はい。

 

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なんか…、御堂筋ってロマンチックな感じですねえ…。
ビジネス街なんだけど、ちょっとオシャレでロマンチックな感じが、いたします。

 

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えーと「バリバリ御堂筋沿い」と書きましたが、勤務先はホントはこの「本町通り」沿いにあります…。ロマンチック度ががくんと下がります…。トホホ。

で、でも!ホント御堂筋すぐそこ!です。ほぼ御堂筋沿いです!(力説)


ホントになんか、御堂筋ってオシャレでロマンチックで素敵な感じですね…。
私大阪の地理とかホントよくわかってなくて(今まで特に縁がなかった)、御堂筋がこんな素敵な感じだとは知らなかったです。


私ホントに特に大阪と縁がなく生きてきたのですが、思いがけずこんな感じで長期滞在となり、何だかじわじわと大阪との縁が育ちつつある気がする…。

なんか、嬉しいです。
人との出会いもそうだけど、土地との出会いも嬉しいものですね。
この世界に「縁があるかも」と思える場所があるのは嬉しいです。


多分来年の1月くらい?までの大阪滞在となりそうですが、それまでちまちまと縁を育てていきたいなと。
ま、基本仕事で来ているのだし、週末東京に戻ったりしているのでそんなにあちこち行ったりはできませんが…。

でも、大阪に「ここ好きだなー」と思える場所が増えてくのは嬉しい。
そういうのこそ「土地との縁が育つこと」ですよね。
そういう時間を過ごせることを、嬉しく光栄に思います。


でも、ホント体力的には何かとしんどいというのが正直な気持ちではありますが…。
あとやっぱり、落ち着いてアクセサリー作りとかができるような状況じゃないと言いますか。

ま、でも人生にはそんな時期もあるさ!
やけに移動が多い時間だってあるのだ!それはそれで面白い体験だ。


今しばらく、こんな「移動多め時間」をみちっと生きてみようと思います。
そして、思いがけず生まれた「土地との縁」に感謝しながら日々を過ごそうと思います。

 

ちなみに、大阪には「ナントカ筋」というのがいっぱいあるのですね。
堺筋とか今里筋とか…。
私は御堂筋しか知りませんでしたが…。

この場合の「筋」はつまり「通り・street」の意味なのだと理解していますがあってますかね…。

 

 

数学の夢 Ver2

以前、「数学の夢」という記事を書きました。

music-mathematics-pattern.hatenablog.jp

 

大学卒業後定期的に「理科系の大学を受験しようとする夢」を見続けているので、無意識からの要求に沿って数学の勉強を本格的にやろうと思った、というような話です。

私は高校生の頃までは大学は理系に行こうと思っていて、でも浪人中に気が変わって心理学系に進みました。
その事は後悔していないけど、でも私の「数学・物理学探求」は中途半端に終わっている。
なので定期的にこういう夢を見ていると思われるので、その中途半端に終わっていることにもう一度本気で取り組むことにした、という話です。

そして、より数学的要素が強い業務の会社に転職し、統計学を学び高校数学を復習し…。
このブログも「数学に取り組む」という行動の1つでもあります。


で!そんな日々を過ごしていたらば!

ついについに「理科系の大学に入学して通学している夢」を見ました!
こういう夢を見るのは本当にはじめてです!びっくりしたあー。

これは「私が本気で数学に取り組みはじめた」ということの表れだと思います。
私の無意識さんがようやく私の努力を認めてくれたというか「お、こいつついに本気で数学に取り組み始めたのだな。よしよし」と思ってくれたような気がしました。

…って私の無意識は私の一部ではあるのですが。
でも、無意識領域は意識のコントロール外です。
ある意味、意識の世界よりもより広大・強大な領域とも言える。
私の一部でありながら、私の意識よりもより大きな世界に開かれている。
自分の中から「自分の思いもよらないもの」が出てくる時も人生には多々ある。それは無意識領域が広大かつ強大で、より大きな世界に開かれているから。

その無意識領域から「ようやく我々からの要求に本気で対応しようとしてくれている訳ですな。よろしい。まずはそのスタートの努力を認めてあげましょう」と言ってもらえた気がしました。


…と言っても、本当にはじまったばかりなのですが。
これから人生をかけてホントにもっともっと深く取り組んでいく予定なのですが。
何しろ、数学と言う山は高く険しいですからねー。ホイホイと気楽に進める道ではない。

でも、とりあえずスタートは切れたかなあと。そして、私の「本気度」が無意識さんにも伝わったかなあと。
自分の本気に自分自身が(意識も無意識も含めて)納得できたと言うか。
そんなことの表れのような気がしました。
そして、それはなかなかの吉兆だと思う訳なのです。

 

夢の中の私は(ちなみに実際の私より若かった。あーあ。私にもああいう時代があったよねえ…、っておばさんくさくてすみません)、現実の私にはよくわからないような長ったらしい難しそうな数式についてああだこうだと語っていました。
いやあ、すごいなあ夢の中の私。
ずっとずっと努力を続けたら、現実の私もあんな風になれるのかな。

 

で、この夢で非常に印象的だったことは、夢の中の私が「上下真っ黒なスーツというものすごく地味な服装だった」ということです。
アクセサリーも全然つけてませんでした。

現実の私は、全然そんな格好をしていません。
毎日何がしかのアクセサリー(しかも大概カラフルで大振りなもの)を身につけていますし、黒は着ても(アクセサリーが映えるからね)「上下真っ黒」ということはほぼないです。もっとカラフルなカッコしてます。
なので、そのギャップが非常に印象的だったのです。
そして、そのことが象徴する意味を考えてみなければと思いました。


そして考えてみて思い出したのが「そう言えば現実世界でも社会人3年目くらいまではほぼモノトーンの服ばかり着ていた」ということでした。


現実の私も、実は大学卒業後社会人3年目くらいまでは、ほぼ毎日「上下真っ黒」に近い服装で過ごしていました。
その頃は、カラフルな色彩の服を着る気になれなかったのです。アクセサリーもほぼ無しでした。
(その頃はアクセサリー作りもやってなかったのです。人生で一番「ものづくり」をしていなかった時期です)

多分、その頃の私は「社会人というものに適用する」ということに手一杯で、「自分の個性を発揮する」というような余裕が全くなかったのだと思います。


大学を卒業して就職する時、何よりもまず「社会人としての自分をしっかり構築せねば」と思っていました。
もちろん業務の専門知識を身につけることは大切ですが、何よりもまず学生から「社会人」という存在にしっかりシフトすること。
社会人としての自分をしっかり作り上げること。
それが一番大切だと思っていました。
やっぱり「学生とは決定的に違うものなのだろう」と思っていたのでしょうね。

そんな風に、社会人3年目くらいまでは「社会人としての基礎をしっかり作る時間」だったような気がします。
その時いた会社だけでなく「どういう場で働く場合でも基礎になるもの」を構築する時間。そういう基礎を身に付ける時間。
そういう時間だったような気がします。


そして、その期間は本当にカラフルな服というのが全く着られませんでした。
ほぼモノトーン。そして、この頃はものづくりにも全く取り組めませんでした。
人生で一番ものづくりに関わってなかった時間だった気がする…。

で、3年経ってようやく「何となく基礎は身に付いたかも」という気持ちになれたのです。
(と同時に「倦怠感」にも襲われたのですが。いやー「慣れ」って怖いですねー)
そして、段々とカラフルなものを身につけられるようになってきて、ものづくりにも復帰したのです。


後にオーラソーマなどのカラーセラピーを習った時に、黒については「個性を見せない」みたいな意味もある、と習いました。
自分の個性とかよりも「職業的専門性」などを全面に出すべき場面などでは黒は効果的、とかそういうことを習いました。

それを聞いて、自分が社会人3年目くらいまでほぼモノトーンで過ごしてきた理由がわかった気がしました。

その3年間はやっぱり、自分の個性が云々とかよりも「社会人としての基盤構築」な時期だったのだと思います。
そういう気分には、きっと「全身黒」みたいな装いの方が合っていた。
だからあの頃は毎日黒ばっかりで過ごしていたのだと思います。

 

…思い出話が長くなってしまいましたが。

「理科系の大学に通学している」という夢で「全身真っ黒な装い」だったということはつまり「今はまだまだ数学の教科書的基礎を学ぶ時期」ということを表しているのだろうなーと思いました。
とにかく基礎をじっくり学ぶ時期。
高校数学、必要ならば中学数学、あるいは小学校の算数にまで戻ってでも基礎をみっちりやる。
あるいは、高校までの数学教育では省略されているけれど、実は基礎でもある抽象度の高い論理的な部分・厳密な定義の部分とかに頑張って取り組んでみる。
今はまず数学においてそういう時期なのだろうなーと思いました。

自分であれこれ考える…、というよりもまずは先人が積み重ねて来た数学の基礎理論みたいなことをなるべく謙虚に学ぶ。
そういう時期なのだろうなーと思いました。


現在数学に情熱を燃やしている私ですが、何しろ大学は心理学出ですから、「夢の意味するところ」についてはできるだけみちっと考えてみたいのでありました。
そして「今はまず謙虚に数学の基礎を学ぶ!」と改めて思った次第なのでありました。


…と言っても、このブログで「音楽と数学」「数学と文様」について思うことなどいろいろ書いて行っちゃう予定なのではありますが。
基礎を謙虚に学びながら、そういうことも書いていこうということです。

 

とにかく、「まずは謙虚に地道に数学の細かい基礎部分をみっちり勉強!めんどくさがったりサラッと流したりしないこと!」と自分に言い聞かせながら数学の勉強を頑張ろうと思います。

 

 

音階理論は数学理論

小学生の頃、音楽の授業が苦手でした。というかはっきり言って嫌いでした。
音楽が嫌いなのではなく、「音楽の授業」というものがイヤだったのです。

その理由は「音階理論の意味を誰も教えてくれないから!」でした。
いえ、当時は何しろ小学生でしたから自分の不満をそんな風に言語化することはできていませんでしたが、今思えばあの時の焦燥はそういうものだったと思います。


小学校の音楽の授業で、当たり前ですが「ドレミ…」を習います。
この「ドレミ…」の正体が全くわからず、小学生の私はひたすらに苦悩していたのです。

今はどいう教育指導要領になっているのか存じませんが、私はピアノの鍵盤で「ドレミ…」を習いました。
鍵盤を見せられ「これがド、レ…」と説明され、「ここでからは高い音のドレミになって…」みたいな感じの説明だったと思います。
(さすがに記憶は曖昧ですが、とにかく機械的に覚えさせられました)
これが私には全く納得ができませんでした。

例えば、ある「ド」とそれより1オクターブ高い「ド」。
この2つの共通点と相違点が一体何なのか、全く意味がわかりませんでした。

何であの高い音と低い音を両方「ド」って言ってるの?
確かになんか似た感じに聞こえるけどさあ、でも違う音でしょ?
何を根拠にこの両方の音を同じ「ド」って言ってるの?
「ド」と「レ」の違いは何なの?「ド」と「ミ」は?そもそも「ドレミファソラシ」の各音の違いってなんなの?
何を根拠にこれは「ド」であれは「レ」なの?
オクターブって一体なんのこと言ってるの?その意味は何なの?
ピアノを元に説明してるけど、そんなのおかしいじゃん!
ピアノは自然物じゃないんだよ!森のどこかにピアノが生えてるワケじゃない。
なんかしらドレミのルールがあって、ピアノというのはそのルールに合わせて人間が作ったものでしょ?
何でピアノを「音程の普遍の真理」であるかのように説明道具にしちゃうわけ?そんなのおかしいじゃん!
何でその背後のルールを教えてくれないの?
音ってなんなの?ドレミって何なの?音程って何なの?オクターブって何なの?
誰が答えを知ってるの?

まだ小学生だったからうまく言葉にはできなかったけど、そんな焦燥を抱えていました。
そして、言葉にできないから誰にも質問することができず、ただ1人で悶々としていました。


私はそんな風に、小学生の頃から「物事の背後にある理論」みたいなものを知りたがりだったようです。
で、それがさっぱりわからないまま実践ばかりさせられるので、音楽の授業は苦痛でした。
何が何だか意味がわからないことについて「とにかくそういうもんなんだからいちいち考えないでさっさとやれ!」みたいに押さえつけられるのが私は大嫌いなのです。今も昔も。

そんなこんなで、音階というものについて孤独な焦燥を抱えて生きている子供時代でした。


で、この音階理論の仕組みをようやく理解したのは高校生の時でした。
高校物理の「波動」の項目で、ようやくそれを知ったのです。
って言うかそもそも「音とは何なのか」っていうことにようやく納得できたのも高校物理によってです。

それをちゃんと知ったのはこの本のおかげだ…。

親切な物理 (上)

親切な物理 (上)

 

 

言わずと知れた高校物理参考書の名著!

この本が無ければ、私は物理学というものが全くわからなかったと思います。
高校の物理の教科書というものは、あまりにも物事の説明が簡略化されすぎていて、さっぱり意味がわかりませんでした。
この本ぐらいに細かく丁寧に、1つ1つ段階を追って説明してもらえないと、私は物理というものがさっぱり意味不明だったと思います。

私は高校生の頃はもうひたすらこの参考書で物理を勉強していました。
で、働き始めた後に「また物理復習したいなー」と思って本屋にこの本を買いに行って…、どこにも存在せず、愕然。
ネットで調べてみるとどうも絶版らしい…。

「ががーん。あの素晴らしい書籍がもう手に入らないなんて…。っていうか今の高校生はもうあの素晴らしい参考書で勉強することができないワケ?そんなの駄目!日本の理科系教育の危機だよそれは!」って本気でおもっちゃいました。
でも本当にそう思ってしまうくらい、素晴らしい書籍なのです。

で、「もうあの素晴らしい書籍が手に入らないなんて…」と呆然としていた丁度その頃、実は復刊ドットコムさんにこの本の復刊を希望する声がどしどしと寄せられていたのでした。
この書籍の復刊を希望する方々のコメントを読んで、泣きましたね。私は。
http://www.fukkan.com/fk/ItemComment?i_no=15303934

「やっぱりこの本をこよなく愛する人は沢山いたんだ。私みたいに<この本で物理の面白さに目覚めた!>っていう人はこの国に沢山いるんだ!」ととても嬉しくなりました。

そして目出度く復刊が決まり、私もふたたびこの名著を手にすることができた訳であります。
復刊版のまえがきには著者の遺族の言葉が寄せられておりますが、これを読んでまた涙…。
とにかく、この素晴らしい高校物理参考書が消滅せずに済んで本当に嬉しい。この本が消滅しちゃうのはこの国の大きな損失ですよ…。本当に…。

 

えーっと、本の話ばかり書いてしまいましたが…。
とにかく、そんな感じの高校物理参考書の名著中の名著であるこの本で、私ははじめて「音とは何か」「音階とは何か」ということをきちんと学んだのでした。

------引用-----------
音波は媒質の弾性によって伝わる縦波(疎密波)である。即ち媒質の各点は波の進行方向に平行に振動する。よって音波が伝わるためには弾性を持つ物質(気・液・個体)が必要である。(真空中は光は伝わるが音は伝わらない)

音叉から出た音波は球面となって周囲に伝わる。今、音叉の横に管を覆えば、音叉の脚が開いた瞬間、足のすぐ外側の空気AはA’に変位し圧縮され密部を生じる。この部分A’は圧力(弾力)が大きいから、右隣のぶぶBを右へ圧し(作用)、同時にBによって左へ圧される(反作用)。従ってBは右へ変位して密部を生じ、A’はもとの位置Aに戻る。このようにして密部が右へ伝わっていく。
------引用終わり-----

こーんな感じの具体的かつ細かく論理的な説明が図と一緒に載っています。
ここまできちんと細かく論理的に説明してくれる本ってホントなかなかないですよ。ここまで説明してくれると納得できます。


で、音の高低についてはこんなふうにシンプルに
------引用-----------
音の高低(音の調子)は音波の振動数で決まり、振動数が大きいほど音は高い
------引用終わり-----


そして問題の「音階とは何か」「オクターブとは何か」についてはこんな説明
------引用-----------
音楽では振動数の比は次のように簡単である。doの振動数を1とすると

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振動数が2倍のとき、1オクターブ(8度)高いという。
二つの音はその振動数の比が簡単なほどよくあう。(調和する)(一つの音に聞こえる)
最もよく合うのは1オクターブの2音で、振動数の比は1:2、次はdoとso(5度)で振動数の日は1:3/2、即ち2:3。次に合うのはdoとfa(4度)で、振動数の比は1:4/3、即ち3:4
或る音の整数倍の振動数を持つ音をその音の倍音といい、これに対し前者の音を原音(基音)という。2倍の振動数の音を二倍音、3倍のを三倍音という
------引用終わり-----
※上記図は本に載っている図を元に私が作成したものです。厳密な図ではないのであしからず。


こうしてようやく私は「オクターブとは何か」「音階とは何か」ということを知ったのでした。
小学生の頃から追い求めていた答えです。

オクターブとは、音階とは、振動数の比率の話だった。
「1オクターブ高い音」とは振動数が2倍の音のことだった。
それぞれの音階も、こんなにシンプルな比率によって決められているものだった。

こんなシンプルな原理を、どうしてもっと早く教えてくれなかったの?
頭の中が「?」だらけになりました。

このシンプルで美しい基礎理論を誰かが私に教えてくれれば、私はあんなに音楽の授業を嫌わずに済んだのに。
むしろ、理科系好きな少女だった私は音階理論にとても興味を持てたと思えるのに。

そんなことが頭を駆け巡り、失われた時間が悔しくて仕方なかったです。


この辺の音階理論の数学的・物理学的側面のわかりやすい説明は例えばこちらのサイトなど。その名もずばり「音楽と数学のいろいろ」
http://gakuen.gifu-net.ed.jp/~contents/museum/music/page52_0.html

このサイトの中でこのシンプルな整数比音階理論が説明されているのはこちら。
1.「神が作った?音階」=純正調音階について
http://gakuen.gifu-net.ed.jp/~contents/museum/music/page52_1.html

アニメーションや音も用意されていて、シンプルで親切なわかりやすいサイトだと思います。


こういう世界を知れば知るほど「音階理論は数学理論でもあるのだ」という気がします。
音楽と数学は、とても密接に結びついている。
なのになのに、学校教育というものがまったくそういう視点を持っていないことが個人的にはとても悔しいです。

なぜ、このシンプルな整数比のことをもっとさっさと教えてくれないのでしょうか。

そりゃあね、振動数とか振幅とかそういう言葉は物理学用語なので小学生には難しすぎるとは思いますよ。
でも、このサイトのようにそれは「弦の長さの比」というパッと見でわかりやすい姿で表すこともできるのですよ。

なんだって音階理論をわざわざピアノの鍵盤で教えるのか。
鍵盤は、この基礎理論をブラックボックス化したようなものですよ?(実際に仕組みはあのでかい内部に隠れている訳だし)
厳密な説明は難しいにしても、なんか音楽教育用のモノコードの楽器を作って、それを元にこの単純な整数比で成り立つ音階の世界の概要を子供に伝えることだってできるんじゃない?
分数とか比率っていつ頃習ったっけ?小学校3年生くらい?
それを習っていれば、音階理論の根本的な部分は何となくでも実感できるんじゃない?
そしてそれは数学の勉強にもなるんだよ。
何でそういう教育になってないの?

そもそも、なんだって教育というというものはこう縦割り行政的に各ジャンルの繋がりが考えられていないの?
音楽と数学は実は根本的なところでとても近いものなのに、その2つを繋げる視点は全く教育されないの?
教育の体系というものは何でこんなにいろいろなものがバラバラになってるの?
もっといろいろなものを結びつける視点を教える教育方針があったっていいんじゃないの?


…音楽教育から教育全般への疑問へ話が拡張してしまいましたが。
とにかく、そんなこんなな感じの憤りを沢山沢山感じました。

このシンプルな基礎理論をもっと早くに教えてくれれば、小学生の私はあんなに苦しまくて済んだのに、と思います。
そして、音楽の世界がきっともっともっと好きになっていたと思います。

もちろん、ひょっとするとこういう数学っぽい話が出てくると音階理論が嫌になってしまう子供もいるのかも知れません。
(もしかしてそういうことを考慮して音楽の教育に数学っぽい話は出さないようにしているのかな…)
論理的な仕組みが全然わかんなくたって音楽を楽しめる人だっていっぱいいるのだと思います。
でも「教育」なのだから、できることならそういう理屈もちゃんと教えて欲しかったです。
「音楽を楽しむ」ということは個人でも割とやりやすいよ。巷に音楽は溢れているのだから。
でも教育には「楽しむ」以上の目的がいろいろあるんじゃないか。


…まあ、「理屈知りたがり屋」の恨みつらみと言ってしまえばそうですが。

とにかく、私はこういう「音階の背後に潜む数学的調和」みたいなのがすごく不思議で好きで、そしてそれは奇跡のように思えてしまいます。

なぜ人間は「振動数の比が簡単な音」に心地良さ・調和を感じるのか。
それはつまり「人間は単純比そのものに美しさ・調和を感じる」ということではないのか。
それは「数学を美しいと感じる」にも繋がるし、「シンプルな数学的規則を持つ文様に美しさ・調和を感じる」ということにも繋がる。
シンプルな比率の繰り返しの文様が人に安心感や安定感、あるいは感動を与えることもある。アクセサリーにだってそういう側面はある。

…そんな風に思考が展開するとそれはそのままこのブログのタイトルでもある「音楽と数学と文様」に繋がるし、私のライフワークであるアクセサリー作りにも繋がる。
だから私は「音階理論の数学的側面」について考えることがとても好きなのでした。
それはそのまま「人間にとって美しさとは何か」と言うような根源的問いに繋がっていくような気がします。

 

さて、今まで綴ってきた「単純な整数比による音階」は純正調の話です。
現在世の中で主流になっている音階は純正調よりも「平均律」です。

「音楽と数学のいろいろ」のサイトにも書かれているように、純正調には「転調ができない」という重大な欠陥があります。
その決定的欠陥に立ち向かう(あるいは折り合いをつける?)為に人類はいろいろな音階を考えるという苦闘を展開してきた訳ですが、その問題をバシーンと一気に解決するのが平均律です。
そしてそこでは「整数比」は成立しない。
無理数」さんの登場ですよ。

「音楽と数学のいろいろ」さんでは平均律の出現について「まるで数学の世界において,自然数だけでは議論が十分にできなくなり,数を整数,分数,無理数,そして虚数と拡張していった歴史に似ています。」と表現しておられます。まさに言い得て妙ですな。


「音楽と数学のいろいろ」さんの平均律についての説明。
2. 「人間が作った音階」=平均律音階について
http://gakuen.gifu-net.ed.jp/~contents/museum/music/page52_2.html

ここでは平均律の説明として「2の12乗根」なんて言葉が出てきます。
「2の12乗根」とゆーのは「12乗する、12回かけると2になる数」です。「1.0594…」と続く無理数です。

もはや、完全に数学の話じゃん。
指数関数・対数関数の話です。高校数学レベルの話です。

人類が「音階の整合性」を突き詰めていった成果の1つである「平均律」は、無理数・指数関数・対数関数というような更に高等数学レベルの話だった!
ますます、音階理論=数学理論じゃないか。


「2の12乗根」は無理数です。つまり「整数比では表せない数」。

と言うことは、音階で非常に重要視されてきた「調和」が失われてしまっていることになる。
調和する整数比の数に非常に近い値にはなっているけれど、すこーしずれている。だからうねりが生じてしまう。


これを知ったときは、結構衝撃的でした。
この「ほんの少しのずれ」、調和しない感じは、何となく無理数というものを知った時の居心地の悪さとも似ているような気がします。

人生で最初に知った無理数は、円周率のパイ(π)だと思います。これは小学校で習いますからね。
でも、小学校でこの数を習う時は「無理数」という概念までは習いません。(私の小学校時代はそうでした)
「どこまでも小数点以下の数字が続く」ということは習ったとは思いますが、なんかその意味をよくわかってなかったと思います。
循環小数との決定的な差までは教わらなかったと思うので、それこそ1/3と同じように認識していたのかも知れません。
(まあ、小学生には難しすぎる概念ですかね)

無理数」ということをちゃんと習ったのは中学生になってから。
そして、そこで私が最初に出会った無理数無理数と認識した数)はルート2(√2)でございました。

√2を知ったときは「そんな数ホントにあるの?そんなの数って言えるの?」って思いました。
でも、√2という数はちゃんと存在する。それはこの図を見て納得しました。

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 大きい方の正方形は1辺の長さが2の正方形とします。

で、4つの辺の真ん中を結んで小さな正方形を作る。
大きな正方形の面積は2×2=4、小さい方の正方形の面積はその半分の筈なので「2」。
と言うことは、この小さい方の正方形の1辺の長さは「2乗すると2になる数」である筈。つまり√2。

「√2ってホントに存在するんだ!」とこの図を見て納得しました。

でもやっぱり、居心地の悪さというか、そういうものを感じましたよ。


実は私のこの「無理数に対する居心地の悪さ」は結局学生時代には払拭できなかった気がします。
微積分にホントのところ納得できていなかったように、無理数にもどこか「そんなのってホントに数なの?」みたいな思いを持っていた気がします。


でも、今は違いますよ。
改めて数学を勉強してみて、以前より遥かに無理数世界の奥深さのようなものを感じています。
多分「受験数学」という縛りがなく、本当に「自分が納得できる勉強」をしているからだと思います。
微積分だって、いろいろ本を読んでみて、高校数学よりも厳密な説明に触れて以前よりもずっと納得できている気がします。

無理数に感じる居心地の悪さは「数字だけでは表せない」ということだったのかな、と思います。
√というなんか不思議な記号や、あるいは方程式の解としてしか表現できない。
そういう部分になんとなく「居心地の悪さ」を感じていたのかも知れません。
「なんかみょうちくりんな記号を使わないと表現できないなんて、そんなのホントに数なの?」みたいなことを感じていたのかなーと思います。

でも今は、そういう風には思っていませんよ。
記号とかが出てくるのはつまり「人間にとって捉えにくい、より抽象度の高い数だからなのかな」みたいに思ってます。
自然数有理数というのは、割と日常的というか、日常的感覚で捉えやすい数ですよね。
でも、無理数というのは日常で意識するようなことはあまりない。
そういう「人間の日常からかけ離れた概念」の世界の数だから、何だか実感し辛いし、表現方法も日常的なものではない。
なんか、そういうものなのかなーというふうに思っています。

ある意味、より「数学度が高い」世界の数であるとも言えるような…。
そんな気もしています。

「数学度が高い」ってのも何か変な表現ですが、まあ「より抽象度が高い」みたいな感じの意味で使っております。
(正確な言葉じゃないですよ。この記事書きながら考えた表現です)

そして、この「無理数」という何とも捉え難い概念の向こうに更に「連続」とか「無限」とかのより広い数学世界が広がっている。
それは、有理数だけを扱っていては知ることのできない世界。

数学の勉強に改めて取り組んでいる過程で、そんな風に思えるようになってきたので、今は無理数という数について学生時代程の違和感は抱いていません。
難しいとは思いますけどね。やっぱり。
難しいというのはつまり「日常からかけ離れた・抽象度が高い」ということであり、より「数学度が高い」と言えるのかも知れません。

こんなこと書いちゃうと離散数学の専門家から「離散数学だって抽象的だ」とか怒られちゃうかも知れませんが。すみません…。
離散数学ももちろん抽象的だと思うのですが、ここでは「日常的実感からかけ離れている」みたいな話題に限定してますので、すみませんです…。
ご了承くださいませ…。ホントすみませんです…。


そんな感じで、昔より無理数に馴染んでいる(少なくとも自分の実感としては)ので、平均律だって興味深いと思えるのです。
以前はねー、「純正調の方が本物で平均律はその近似値なのでは」みたいな思いを持っていましたが、今はそんな風には思っていません。

そもそも「本物の音階」なんてのは無いですよね。
って言うか、どの音階だって「本物」ですよ。いろいろな体系があるのが音階の世界。
純正調も平均律も、あるいはその他の音階体系だって、どれだってアリなのですよ。
目的や好みによって自由に選択すればいい。
今は、そんなふうに思っています。

平均律では、確かに整数比の音階のような調和は犠牲にされているのかも知れません。
だから、少しのうねりが生じる。
でも、整数比の調和とはまた別の「調和」を持っているのではないかという気がします。
その調和の顕れが例えば「矛盾無く転調できる」なのではないかと。

そしてその「整数比とは違う調和」を表す数学が、指数関数や対数関数であるような気がしています。
日常っぽい感覚では何となくとっつきにくいものではあるけれど、でもそれもこの自然界に確かに存在する調和。
そんなことを考えたりしています。

 

そんなこんなで、「音階理論は数学理論」ということについて思うことをあれこれ書いてみました。
こういう毒にも薬にもならんことをつらつらと考えることがチョー好きな奴なのでございます。無限結晶Mというヤツは。
(私のことです)

でも本当は、私にとっては「毒にも薬にもならないこと」じゃないよ。
ますます音楽や数学が好きになるし、アクセサリー作りの発想にだって役立っています。
だって私が作りたいアクセサリーの理想の1つは「音楽のような心地良さを感じるアクセサリー・音楽が聞こえてくるようなアクセサリー」なんだもん。
そういう目標の実現の為には、こういう理解や考察が役立つのでした。

 

 

数学の夢

今回は、数学の夢の話を。
夢とは言っても「私は数学で××するのが夢」みたいな話ではなく、夜眠る時に見る夢のことです。


私は中学生~高校生の頃は将来は天文学の道に進みたいなあなどと思っていました。
中学生の時星の世界に突如目覚めて、バリバリの天文少女になり、なので数学・物理をせっせせっせと勉強していました。
大学はそういう系統のとこに行こうと思っていたのです。

ただ、小学生の頃から理科系科目好きだったとは思います。
全般的に勉強好きな子供でしたが(と自分で書くのは嫌味かなとは思うのですが話の展開上書きます、すみません)、特に理科系科目と親和性が高かった気がします。

いえあの、国語とかも好きだったんですよ。作文とかの課題が出たときとかもモリモリと書いてたし。本もモリモリと読む子供だったし。
文系科目が嫌ということは全く無く、それも興味深いと思っていました。

ただ、やっぱり理科系科目との親和性は高かったと思います。何と言うか「論理性」というものが好きだったのではないかと思います。子供の頃から。
論理を組み立てるような勉強世界が好きだったのだと思います。
もちろん小学生の頃はそういう自分の傾向を言語化することはできなかったけれど。


とにかく、そんな風に小さい頃から理科系科目と親和性が高く、そしてそこに「天文学」という目標ができたので更にそこを目指して数学・物理学をせっせせっせと勉強していました。

そんな10代だったのですが、浪人中にいろいろ思うところがあり、結局ごろーんと進路を変えてしまいました。
結局大学は心理学の学科に進んだのです。

周りからは「何でいきなりそんな全然違う方向へ?」みたいなことをいろいろ言われましたが、自分としてはそんなに正反対という風にも思ってなかったです。
違和感は無かったというか。
大学生の頃から、「心理学と物理学は必ずしも正反対ではない気がする。共通部分がある気がする」という風に思ったりしていました。
実際「物理学的心理学」とでも言うような体系を作っているアーノルド・ミンデル氏のような方もいますしね。
(ミンデル氏の書籍好きです。難しいけど)

とにかく、そんなこんなで大学では心理学勉強してました。
もちろん、心理学世界で言うところの「論理」はやっぱり数学・物理学世界のそれとは違うと思います。
どちらかと言うと「物事を象徴的に考える」みたいな能力が鍛えられる世界だと思いました。そこには、数学・物理学の世界とはまた違う「論理性」があるのですよね。それを学べたことは人生の財産です。その後の人生にずーっと生きている。
(心理学ちっくな話もこのブログでいろいろ書いてく予定です)


ただ、私の「数学・物理学探求」みたいなことはある意味そこでバタッと断ち切られているのです。
何か、中途半端なままで終わっている感じ。

もちろん、大学で心理学方面に進学したことは全然後悔していませんよ。
それは私の人生に必要なことだったし、大学4年間は本当に充実していて幸せだったと思っています。

でもそれでも、バタッと中途半端で形で終わってしまっている側面があったのは確かです。
「小学生の時から理科系科目好き少女」「数学・物理学好き天文少女」という私のある側面は、その時点でバタッと一時停止になったままになっている。
そういう気持ちはやっぱりどこかにありました。


そして、大学を卒業し就職した頃から、定期的に同じテーマの夢を見るようになりました。
「理科系の大学を受験する」というテーマの夢です。

夢の中の私は高校生や大学生だったり、あるいは一度大学を卒業していたりといくつかパターンがあるのですが、とにかく理科系の大学を受験しようとして色々調べたり準備したりしている夢です。
そういう夢を、3~4ヶ月に1回見る、という日々がずーっと続いていました。


もちろん、こういう夢を見続ける理由は自覚していました。
「私の数学・物理学方向の探求は途中で断ち切られている。中途半端な状態で終わってしまっている。だからこういう夢を見続けるのだ」と思いました。

私の無意識世界の中には「途中で夢を断ち切られた理系少女」がいる。
それも私の一側面。
その少女が時々どうしても夢の中に出てくる。どうしても居場所が必要。だって彼女も私の一部だから。

ある意味、簡単すぎる程単純な夢分析で済むような明快な話です。
だから、定期的にこういう夢を見るということはまあ当然だと思い、自分としては納得していました。

別にこの夢を見続けるのが嫌とか怖いということもありませんでした。
原因がわかっていることというのは恐怖・嫌悪の対象にはなりません。
なので納得して「自分の人生の中で当然起こること」としてこの夢を見続けることを受け入れていました。

そして「この少女を満足させてあげることを自分の人生の中に取り入れていこう」と思っていました。
実は、就職にIT系を選んだのはその自覚があったから、という側面もありました。
何しろひたすら論理の世界ですから。プログラミングというものは根本に論理学や集合論が関係していると思いますし。
それに、趣味的に数学や物理学の本を読んだりすることもあったので、「それでいいか」という風に思っていました。


でも、やっぱり相変わらず同じテーマの夢を見続けている。
夢の基本パターンに全然変化がない。
段々と「このままでいていいのだろうか」という気持ちが大きくなっていきました。

すごーく単純でざっくりとした解釈ですが、夢は「無意識からの要求」という側面があります。
繰り返し同じテーマの夢を見る、ということはつまり、そのテーマについて強い要求が無意識からあるということ。
その要求にもっと真摯に向き合う必要があるのではないか、という気がしてきました。
そこにもっと本格的に徹底的に取り組む必要があるのではないか、という気がしてきてきたのです。

そしてそのことと並行的に、アクセサリー作りの経験から「アクセサリー作りは数学のようだ」という思いが自分の中で大きくなっていきました。
やっぱり「数学」ということにもっと本気で徹底的に取り組む時期が来ているのではないか、という気がしてきました。
そのことによってアクセサリー作りをはじめとする私のものづくり世界も広くて深いものなっていくのではないか。
ものづくりを進化させる為にも、数学にもっと真剣に取り組むべきなのではないか。
そんな思いが強くなっていきました。

程々に数学に触れる、というレベルではなく、もっと本格的に徹底的に人生まるごと的な感じで取り込むべきなのではないかという気がしてきました。


でもだからと言って、夢と全く同じように「どこかの大学に入学しよう」などと思った訳ではありません。
「夢に取り組む(即ち無意識からの要求に取り組む)」ということは、夢の内容をそのまま実現すればいいというものではないと思います。
夢というのはもっと象徴的に読まないと。

「理科系の大学に入学しようとする」ということを象徴的に解釈すると(対象は数学として)例えば、
1)大学レベルの数学を身につけることにトライする
2)大学新入生のような気持ちで数学という学問に向き合ってみる
とかそんなようなことを思いました。

もちろん解釈はいろいろ成立し得ると思いますが、私としては何より「1)大学レベルの数学を身につけることにトライする」が今の私にとっては一番妥当なのではないかという気がしました。何と言うか、その解釈が一番自然にフィットする感じ。
私の中の「理系少女」が喜んでいるような実感がありました。

私の中の天文少女は理科系の大学に行って数学・物理学をバリバリ勉強するつもりだったでしょうから。その少女の夢を叶えてあげる為には私自身が大学レベルの学問にトライするのはある意味自然なことな訳です。
なので、やっぱりそれにトライすることを考え始めました。


そしてまた同時並行的に諸事情ありまして転職せざるを得ないような状況になりました。
まあ、転職は前々から考えていることではあったのですが。

で、転職活動の際はIT系でいくつかのジャンルにあたってみましたが、結局データ分析系の会社に入社することになりました。
転職活動しているうちに、自分の中で「やっぱり私はデータ分析チックな仕事がしたいな。今までのIT業務経験を活かして、更に数学的要素が強い方向に進むのが私の次のキャリアとしては良いのだろうな」という思いが強くなっていきました。
何となく「私はそういう方向に進むべきなのだろうなー、人生の方向をそういう側にシフトすべき時なのだろうなー」という実感がありました。

ホントーはね、もちっと楽な残業少なさそうな仕事とかがいいかなーと思いもあったのですよ。
でも、そういうとこはことごとくうまく行かなかったです。
なんかやっぱりある程度話が進むのはデータ分析系の会社ばっかり。
なので「やっぱり私はそういう方向に行くべきなのね。たとえ残業が多かったとしても」と思いました。
「もちっと楽な残業少なさそうな仕事とかがいいかなー」というのは単なるエゴであって、本当に私が進むべき道、陳腐な表現で申し訳ないですが「魂が望む道」はやっぱりもっと数学要素が強い方向なのだろうなーと思いました。
たとえ残業が多くても。

で、まあ半年位の転職活動の末、今の会社に入社することになりました。
入社が決まった時「私のどういうところが評価されたのでしょうか」と担当の方に質問してみると「社長は<数理センスのある人だ>と思ったと言っていました。その辺りが決め手になったようです」と仰ってくれました。
この言葉は超絶嬉しかったです。多分私は「優しい人」とか言われるより「数理センスがある」とか言われる方が100億倍くらい嬉しいですね。
って「優しい」とかあんま言われたことないですが。


そんなこんなで、データ分析寄り業務の会社に入社し、業務に勤しみながら並行して数学の勉強もする日々なのでした。
正直仕事はすごーく厳しく、消耗することも多々あります。
でも「数学的思考力を鍛える」という目的のためにやっています。
やっぱり実践積むことも必要ですからね。数学というジャンルも。理論だけじゃなく。
社長と数学の話をしたりできることも嬉しい。
そういうことって、ありそうでそうそうないものですよ。


そして、やっぱり転職してから「理科系の大学を受験しようとする夢」はパッタリ見なくなりました。
ま、当たり前ですけどね。現実世界で取り組んでいる訳ですから。

統計学を本格的に学ぶ為には、どうやっても大学レベルの数学が必要。
なので恐る恐る、でもワクワクドキドキしながらそういう世界に踏み込みつつあります。

とは言っても、本当に遅々とした歩みですけどね…。
そもそも高校数学の復習からやってるし。まずそこからやらないとわかんないですから。
数学書籍というのは「わかんないとこは読み飛ばして先に進んでみる」ということができないジャンルですから。
わかんないまま進んだら、さらにサッパリわかんなくなる。
ホントに一歩ずつ進むしかない。
ときには中学数学のレベルにまで遡ったりしながら。


でも、ほんと難しくて大変だけど、やっぱりすごく興味深いです。
大学レベルまで入っていくと、数学の世界は更に厳密で美しく、本当に奥深いです。
高校生の頃までは、どうしても「受験勉強」という縛りがあった。なのでいろいろ「?」と思うところがあっても問題を解けるようになることを優先するしかなかった。でも、今は違う。
高校生の頃よくわからなかったこと、今ひとつ納得できなかったあれこれ、「それってつまりどういう話なの?」と思う部分について好きなだけ調べたり考えたりできる。
それが嬉しいです。

もちろん高校数学も面白いとは思うのですが、その制約から解放されて「それってつまりどういう話なの?」と思ったところを追求していくのは楽しい。
「数学ってこんなにも深淵な世界だったのか!」と思ってしまいます。
それがすごい面白いです。


ま、でもホントにホントに難しいんですけども…。
ホントに数学の本を前にしながら唸ったりしてるんですけど。

でもホントに、難しくも興味深い面白い世界です。

その難攻不落な世界に取り組みながら、その世界で身に付けた思考力をアクセサリーその他ものづくり世界で「目に見える形」に変換していきたいと思っています。
「音楽と数学と文様」の実践です。

そういうことが、私がすごくやりたいこと。
「私はそういうことが向いていて好きで人生で取り組むべきことなんだろうなー」と素直に思えること。
だから、一歩一歩地道に真摯に、でも面白がりながら取り組みたいと思っています。

 

あら、最後は結局「数学で××するのが夢」みたいな話になっちゃいましたね。

でも、それでいいのです。

寝ているとに見る夢。
「人生の中で実現したいと思っていること」という意味での夢。

それらはきっと、究極的なところでは同じだったりするのかも知れません。殆ど違いは無くなってくる。
河合隼雄先生も著書でそういうことはよく仰っていましたし。


とにかくそんなこんなで、私は私の「数学の夢」を行きます。生きます。
私なりの「夢を生きる」ですね。

 

 

明恵 夢を生きる (講談社+α文庫)

明恵 夢を生きる (講談社+α文庫)

 

目に見える音楽

「音楽と数学と文様」が人生の大きなテーマの1つである私にとって、ものすごーいバイブルになっているのがこの本。

 

イスラム芸術の幾何学 (アルケミスト双書)
ダウド・サットン
創元社
売り上げランキング: 30,138

名前がもうそのまんまですよね。
この本を書店で見つけた時はトリハダが立ちました。「私が探していた本を見つけたよー!」って気持ちでした。

アクセサリーを作る日々の中で実感してきた「アクセサリー作りは数学のようだ」という思い。
そのことは既に人類の歴史の中で実践され続けてきた事なんだ、ととても嬉しくなりました。


タイトルそのままに、この本では様々なイスラム幾何学文様と、その背後に潜む幾何学法則の解説が載っています。

荘厳で美しく、かつ極めて論理的なイスラム芸術の世界は本当に圧巻です。
それは決して出鱈目なものではなく、本当に厳密な幾何学法則に基づくものなのです。
その厳密さに感激します。
「私は数学的整合性がある世界が本当に好きなのだー」と自分で改めて実感しました。
そういうものづくり世界を私は探求したいのだ、と改めて思いました。


で、今回はこの本の中で私が大感激しまくった言葉をちょっと引用してみます。
もう100回くらい頷いちゃったよ、という文章たちです。

 

まずは1ページ目の「はじめに」から。
この文章だけでもうご飯三杯いけるよ、っていうくらいに感激しました。

---引用--------------------
宗教美術の役割は、その場を訪れた人々の霊的生活を支え、世界をどう理解すればよいか、世界の背後にある捉えにくい現実をどう把握すればよいかを教えることにある。伝統を担う職人たちは、いかにして物質を使って霊的世界を表現するかという課題に立ち向かう。世界中の壮麗な寺院、教会、モスクは、ただその目的のために傾注された努力の遺産であり、どれもそれぞれの宗教の霊的視点によって形づくられている。
---引用終わり--------------------

そうなんだよね、宗教美術というはただ美しさを追求するだけのものではないんだよね。
「人々の霊的生活を支え」るのが第一の目的なのだよね。ある意味、「美」というのはそれを探求した結果の副産物とも言えるのではないかと。
「美」は目的と言うよりも結果なんだよね。
目的を十分に達成した作品は自ずと美しい。そういう側面があるのではないかと。

「いかにして物質を使って霊的世界を表現するか」というのは確かに難しい大問題です。
私はその為の手段の一つが「数学・幾何学」なんじゃないかと思っています。
数学というのは極めて抽象的な学問です。何しろ「物質」は全然扱ってませんからね。数字も式も「物質」じゃない。
「これが1でーす!」って何か物質を提示することはできない。
そんな「極めて抽象的」な学問領域である数学は、自ずと「世界の背後にある捉えにくい現実」をある意味比喩的に表現するのに役立つのではないかと。
なんか、そんな風に思ったりします。


---引用--------------------
イスラム世界の美術工芸は、その長い歴史を通じて、さまざまな媒体で多彩な様式を発展させてきた。しかしそこには常に、一目でイスラム芸術とわかる統一要素があった。統一性と多様性の関係を明示的に追求した美術様式が、一貫性を持つと同時に多彩でもあるのは驚くにはあたらないだろう。その中心にあるのが”調和”である。
---引用終わり--------------------

「調和」を表現する為の手段の1つがつまり「幾何学法則」なのではないかという気がします。
「調和」を表現する為にはやっぱり何がしかの「ルール」「法則」みたいなのが必要なのですよね。文様に「調和」という土台を持たせる為にはやはり幾何学法則というのは最適なのではないかという気がします。


で、本書の「はじめに」では続いて、イスラムのデザインはカリグラフィーと装飾模様に分かれるという話が展開され、装飾模様は更に2つに分かれるという話になります。
---引用--------------------
ひとつは幾何学パターンで、平面を調和のとれたシンメトリカルな図形に分割し、複雑に織り合わさったデザインを作り出して、無限性やあまねく存在する中心といった概念をあらわす。もうひとつは理想化された植物模様、つまりアラベスク、唐草、葉、蕾、花などであり、有機的な生命やリズムを体現する。
---引用終わり--------------------

「無限性やあまねく存在する中心」!
そうそう!そういうことを実感させてしまう力があるのですよね。イスラム文様というものは。
そしてなぜそうなるかと言うと、その背後に幾何学法則があるから。

「無限性やあまねく存在する中心」っていうのは、ある意味極めて数学的・物理的な概念ですよね。

なんか、宇宙論でも「この宇宙には中心というものが存在するのかしないのか」みたいな議論があったと思います。
で、確か「この宇宙のどこも中心に為りうる」みたいな理論があった気がします。私が読んだ本では「球体の表面」を例に説明されていた気がします。
球体の表面はどこも中心になり得ますよね。
「宇宙の中心」というのもそういう風に考えるべきで、どこが中心というはなくどこも中心になり得る、みたいな話だったと思います。

学生の頃読んだ本に載ってたのでもし最新宇宙物理学では否定されるような理論だったらすみません。
でも、この理論が否定されていようがいまいが、数学とか物理学というのは「無限とは何か」とか「中心とは何か」とかそういうことを考えるのに極めて適切な学問ですよね。
適切と言うか、そもそもそういうことを考える為に発生した学問と言うべきなのか…。

そして「無限性やあまねく存在する中心」という概念は極めて宗教的・哲学的でもある。
だからこそ、「人々の霊的生活を支える」ことが使命である宗教芸術が極めて数学的であることは何ら不思議ではない気がします。

 

そんな風に「はじめに」だけで大・大・大感激しちゃったこの本であります。
「私が知りたかったこと、モヤモヤと漠然と考えていたことが全部言葉になってるよー!」と大感激してしまったのです。

 

で、今度は「むすび」から文章を引用してみたいと思います。

---引用--------------------
イスラムのデザインは、文明化とひきかえに失われた霊的な感覚を、無垢の自然が持つ原初的な美しさを再構築することで補完し、俗世にどっぷり浸かった人間を真剣な熟考へいざなおうとする。イスラムのデザインは、一種の”目に見える音楽”だと言ってもよい。モチーフの反復とリズムが内なるバランス感覚を目覚めさせ、神への祈りや神についての思弁を視覚的に展開する役目を果たすのである。
---引用終わり--------------------

この「目に見える音楽」という言葉を読んで、雷に打たれました。

アクセサリー作りは音楽のようだ。
アクセサリー作りは数学のようだ。
そんな思いはそのまま「目に見える音楽」を感じていたものだったのかな、と思いました。


音楽と文様は互いに変換可能である。
そしてその間を繋ぐのは数学理論である。

そんな風に思います。


私は「目に見える音楽」を構築できる人間でありたいです。
私が作り出すもの全てがそういうものになることを願います。
それを目標に、いつも真摯な気持ちでものづくりに向き合いたいです。


美しい世界には調和がある。
その調和はつまり音楽でもあり、数学でもある。
そしてそういう音楽的・数学的調和を宿したアクセサリーを作ることは可能である。
そんな風に思います。

 

そんなこんなで、この本は私に人生の指標を提示してくれたバイブルなのでした。


今後も、この目標をいつも心に置きながら、いろいろ作ったり数学の勉強をしたりしたいです。